こんにちは、くらです。
もうすぐ今年も終わりです。
年末から正月へかけて、いつもなら人の移動が目まぐるしく、どこも混雑している時期ですが、今年は、帰省事態を取りやめる人が多くなりそうです。
状況を見ると仕方ないと思いますが、いつもあるものがなくなると、やはり寂しいと感じます。
普段それほど重要だと思っていないこと、むしろ無駄だと思っていることも、できなくなると、我々の生活にその無駄も大切だったと思うのです。
前職では月に3回くらいは飲み会がありました。
決して嫌なわけではないのですが、結構時間もお金も費やしていましたので、特に、気の向かない飲み会は心のどこかで無駄な時間と感じていました。
退職してそれが全くなくなりました。
時たま前の仲間に誘われるのですが、コロナ禍では、それもなくなりました。
1年全く飲み会等で集まる機会がなく、無駄が無くなったと思う反面、なんとなく寂しい気もします。
飲み会を例に挙げましたが、買い物や旅行、友人と会う、など、普通にできていたこと、いわゆる、不要不急ができないとなると、どちらかというと無駄と思われることは、人間には必要なのではないか、と最近よく思います。
「生命の継続を可能とした戦略の本質は、通常イメージされている、適応的な進化のような一方向を向いたものではない。
本当に大切なことは、実はその環境下で生きることには何の役にも立たない、『無駄』な変異をランダムに起こし続け、それを許容することなのである。
単純な話ではあるが、他の環境で有利に働く変異は、現環境下では基本的に、『無駄』なのだ。それを許容して生み出し続けることが、現状とは違う県境で生存できる新しい生き物を生み出し、簡単には全滅しない強靭性を生命に与える。
『無駄』を生み出し、それを許容すること、それが生命の持つ優れた特性である。」
(『科学と非科学』中屋敷均(講談社学術文庫)より引用)
生物は無駄な部分を持ちながら生きながらえる。
無駄があるからこそ生きながらえることができる。
そう感じてしまいます。
いままで何も考えずに、無駄だなと思いながらもできていたことは、できなくなって初めて無駄ではなかったと思える。
それは、実は無駄ではなかったのかもしれません。
違う話かもしれませんが、以前、家庭菜園をやっていました。
畑に行かないとすぐに雑草が野菜を駆逐するほど一杯になってしまいます。
しかし、不耕起栽培ということを勉強すると、その雑草の根が、土を耕してくれる。雑草を、根を残して刈ると、土の中に残った根が腐食して消え、その後が栄養や水やミミズの通り道になる、ということを知りました。
ちょっと周りを見ると、無駄だと思っていたものが、実はとても有用なものだった、ということがあるかもしれません。
今回もお読みいただきありがとうございました。