「今日のちょっといいお話」カテゴリーアーカイブ

自分を磨く!今日のちょっといいお話(その292)「成功する人の手」

こんにちは、くらです。

成功する人の手は血だらけだ、という話があります。

物騒な話に聞こえますが、実はそうではない。

「幸田露伴は、こんなことを言っている。

『成功した人と成功していない人を見ると、成功した人は失敗した原因を自分に求める。

悪い運を惹いたのは自分の手であると考えるから、その手は血にまみれている。

ところが、失敗ばかりしている人は、手が痛むようなことをせず、手がきれいだ』

けっして他人のせいにせず、自分の責任で運命の糸を引く人の手は、痛み、血だらけになっている。

何かにしくじるたびに、自分で何か打つ手がなかったのだろうかと、痛いほど自己を省みる。

しかし、あらゆる失敗を人のせいにして知らん顔をしているような人は、手から一滴の血も流していない。

失敗を自分の責任として捉えず、自らの責任において運命の糸を引いていないのだから、痛いはずがないのだ。

どちらがより成功に近いかは、言わずもがなであろう。」

(『人生の手引き書』渡部昇一(扶桑社新書)より引用)

失敗を自分の責任と考え、次は必ずやり遂げる、と思いながらまた失敗する。

それでも、あきらめない人は、結果として、自分を信じている人なのでしょう。

自分を信じられないと、やっぱり自分はダメなのだ。

何回やっても失敗する。そう思ってしまう。

すると、失敗する自分が嫌になる。

嫌になった自分を受け入れたくなくなる。

そして、自分以外に失敗の原因を求める。

私は新人の頃、営業成績が全く伸びなかったとき、この通りの心理状態になっていました。

売れないのは製品のせい、理解しない顧客のせい、こんなところを担当させた会社のせい・・・・・・。

いくらでも他人のせいにできます。

自分の本当の姿を受け入れたくないから。

でも、売り上げが伸びてきたころは、不思議と自然に失敗を自分の責任として受け入れていました。

今回は、私のこの行動が悪かった。

次はこれをやってみよう。

失敗を自分の責任として受け入れられるのは、身体を動かして、自分の意思で問題に対処し続けること。

それをやると、確かに自分の手は血まみれになることが多々あると感じます。

「子曰く、君子は諸(これ)を己に求め、小人は諸を人に求む。

君子は何事も己の身に反りみ求め、小人は何事も人に求める。」

(『論語新釈』宇野哲人(講談社学術文庫)衛霊公第十五ー二十一 より引用)

小人は永遠に君子を目指して歩き続ける。

そして、少しずつでも進んでいけたら、生きていく甲斐があると感じます。

今回もお読みいただきありがとうございました。

自分を磨く!今日のちょっといいお話(その291)「天才のアドリブ」

こんにちは、くらです。

アドリブは音楽の即興演奏のことですが、一般に即興的な対処を指していることが多いと思います。

私は、即興的な対処をするには、好きな道を深く掘り進むことが基本で、仕事にしても趣味にしても、その人の心のあり方、生き方が大切だと思っています。

過去の天才に、それを学ぶことができます。

江戸時代の浮世絵師、葛飾北斎のエピソードがあります。

「北斎が七十三歳の時、天保の飢饉(1833~1839)が起き、北斎が住む江戸でも多くの餓死者が出ました。

誰もが食べるのに精いっぱいで、錦絵を買ってくれる人はいません。

北斎は和紙や唐紙(からかみ)を取り寄せて一冊の画帳をつくり、それを売ろうとしましたが、既に世間に名を馳せていた北斎の画帳といえども、求める人はなかなかいませんでした。

そこで北斎が思いついたのが『絵直し』です。

点でも線でも好きなものを描いてもらい、それに米一升を添えると、北斎が見事な絵に仕上げるというものです。

一流画家との共同作業による絵が手に入るということで庶民の間で人気を博し、北斎も困難な時代を生き延びたわけです。

融通の利かないイメージがある北斎が、いまでいうゲーム感覚のアイデアを発案し実行する。

私はここにその時、その時の状況に自在に応じていく北斎の両面性、環境への順応性を見る思いがします。

天保の改革に対する北斎の処し方もまた興味深いものがあります。

経済の悪化に伴う倹約や風紀粛正に伴って、戯作者の柳亭種彦、人情本作者の為永春水らが出版統制で次々に処罰される中、北斎は庶民教育という視点で作品を描くことを思いつきます。

『百人一首』が読めない庶民のために、それを絵で表現した『百人一首乳母(うば)かえとき』という浮世絵はその一つです。

『百人一首』には『わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと人には告げよ海人(あま)の釣舟』という参議篁(たかむら)の歌があります。

『広い海を、多くの島々に向けて漕ぎ出していった、と都の人々に告げてほしい、漁師の釣り船よ』という意味で、これは島流しになった男たちを詠んだ歌です。

北斎はこの場面を浮世絵として表現するのですが、面白いのは北斎が漁師の代わりにアワビを獲る海女を画いている点です。

女性を画いたほうが人々の関心を惹くと考えたのでしょうか。

そこにもまた北斎の発想の豊かさ、柔軟さを見る思いがします。」

(月刊到知2020年10月号 「葛飾北斎の歩んだ道」橋本光明 より引用)


この記事によると、北斎は85歳の時、「猫一匹まともに画けない」と娘の前で涙を流したそうです。

何歳になっても、もっとうまくなりたい、自分に満足しない、北斎の自分を磨くことへの執念を感じます。

その志の中で、時代や環境に応じた即興的な対応、アドリブは生まれてくるのだと感じます。

今回もお読みいただきありがとうございました。

自分を磨く!今日のちょっといいお話(その290)「大器とは」

こんにちは、くらです。

「大器晩成」という言葉は、人物ができるには時間がかかる、大物は後々になって本領を発揮する、のような意味だと思っていました。

どうも違うようです。

「・・・大器は晩成し、大音(たいおん)は希声(きせい)、大象(たいしょう)は形無しと。

道は隠れて名なし。

夫(そ)れ唯(た)だ道は、善(よ)く貸し且つ善く成す。

偉大な器(うつわ)ものははるかな後にできあがるものであり、偉大な音響は耳には聞きとれず、偉大な象(かたち)はふつうの形としては見えない。

『道』は現象の背後に隠れていて、もともと名づけようのないものである。

見ることもできなければ、聞きとることもできない。

それでいて、そもそも『道』こそがあらゆる事物にじゅうぶんな力を貸し与え、そして、それらをりっぱに感性させるのだ。

『大器晩成』の句はとくに有名である。

ふつう、『大人物の完成には時間がかかる』として、不遇な人を励ましたりするのに使われるが、それは『老子』の真意ではない。

『晩成』ということばは、文字どおりには『できあがるのがおそい』であるが、前後の句との関係で考えると、むしろいつまでも完成しない、その未完のありかたにこそ、大器としての特色があるということであろう。

できあがってしまうと形が定まり、形が定まれば用途も限られる。

それでは大器ではなかろう。『大音希声』に『希』は、ほとんど無声に近いかすかなひびき。

(中略)

『声なき声』、沈黙の静けさのなかにひびく真実の声、それこそが聴きとらねばならない『道』のこえである。 」

(『老子』金谷治(講談社学術文庫) 旧第41章「道のありかた(3)」より引用)

道を目指すものにゴールはない。

ここがゴールだと思った途端に、歩みが止まる。

能の大成者、世阿弥の言葉があります。

「『時分の花より誠の花』

若さが放つ花が時分の花である。

そういう花は時と共に褪せる。

修養を日累月積して咲くのが誠の花である。

その花は年を経るごとに美しさを増す、ということである。

また、こうもいう。

『住する所なきをまず花と知るべし』

止まらず学び続けることこそ花だ、ということである。

修行にも人生にも、これでいいということはない。

常にこれからと思い前進せよ、そこに花がある、と世阿弥は教えている。」

(月刊到知2020年10月号 特集「人生は常にこれから」より引用)

創造者は常に追い続ける。生きている限り、ゴールはない。

それが「道」ということなのでしょう。

今回もお読みいただきありがとうございました。

自分を磨く!今日のちょっといいお話(その289)「今も、これからも」

こんにちは、くらです。

続ける、ということに意味はあるのか。

そう思いながら、ギターを続け、サラリーマン生活を続け、このお話も続けています。

凡人ができることは、素晴らしい成果を出すことは難しくても、凡庸なりに、とにかく続けること、と思いながら、日々続けています。

伝教大師最澄の言葉に、一隅を照らす、があります。

この言葉を知った時、とても心が救われた気がしました。

「古人言(いわ)く、径寸(けいすん)十枚、これ国宝に非(あら)ず。一隅を照らす、これ則ち国宝なり、と」
(伝教大師最澄『天台法華宗年分学生式 冒頭の言葉)

「むかし、魏王が言った。

『私の国には直径一寸の玉(ぎょく)が十枚あって、車の前後を照らす。これが国の宝だ』。

すると、斉王が答えた。

『私の国にはそんな玉はない。

だが、それぞれの一隅をしっかり守っている人材がいる。

それぞれが自分の守る一隅を照らせば、車の前後どころか、千里を照らす。これこそ国に宝だ』と。

この話にこもる真実に深く感応したのが、安岡正篤師である。

爾来(じらい)、安岡師は『一燈照隅(いっとうしょうぐう)』を己の行とし、この一事を呼びかけ続けた。

『賢は賢なりに、愚は愚なりに、一つことを何十年と継続していけば、必ずものになるものだ。

別に偉い人になる必要はないではないか。

社会のどこにあっても、その立場立場においてなくてはならぬ人になる。そ

の仕事を通じて世のため人のために貢献する。

そういう生き方を考えなければならない』

その立場立場においてなくてはならぬ人になる。

一隅を照らすとはそのことだ、という安岡師の言葉には、私たちの心を奮起させるものがある。

国も社会も会社も自分の外側にあるもの、向こう側にあるもの、と人はともすれば考えがちである。

だが、そうではない。

そこに所属する一人ひとりの意識が国の品格を決め、社会の雰囲気を決め、社風を決定する。

一人ひとりが国であり社会であり会社なのである。

世界が激しく揺れ動いているいまこそ、一人ひとりに一隅を照らす生き方が求められているのではないだろうか。」

(『小さな人生論』藤尾秀昭(到知出版社)より引用)

先ほどニュースで、農業を真剣にやり始めた若い人たちが増えているという話をしていました。

今までの価値観から、新しい価値観へと、世界が徐々に動いていると感じます。

今回もお読みいただきありがとうございました。

自分を磨く!今日のちょっといいお話(その288)「思考を深める」

こんにちは、くらです。

新人の頃、よく言われた言葉があります。

「よく考えろ!」

そう言われても、何をどう考えればいいのか、具体的な方法は何も教えてもらえませんでした。

よく考えられない自分は、やはり頭が悪いのかと、更に落ち込んだ気がします。

でも、これからの時代は、考えを相手に伝え、伝わらなければ生き残っていくのは難しいとも言われています。

そのためには、まず、自分で深く考え、色々なことを前提として先に進まなければならないと感じます。

その上で重要なのは、言葉です。

相手に響くには、自分の言葉を、まず練らなければいけません。

電通のコピーライター、梅田悟司さんはその著書、「言葉にできるは武器になる」で仰っています。

考えを進めるには、「T字型思考法」で、「なぜ?」「それで?」「本当に?」を繰り返すことが大切。

(以下本文)

「3つの方向に考えを進めることによって、自分が思っていることを明確に把握できるようになってくる。

この1つひとつの言葉を認識し、自分の中へと還元していくことが重要なのだ。」

でも、これを実施する際に注意しなければならないのは、「思考の迷子」になってしまうことだそうです。

(以下本文)

「ふと客観的になると、自分が一体何のために、何を考えていたのかが分からなくなってしまう。

今自分がどこにいるのかも、どちらの方向に行けばいいのかも分からない状態に陥ってしまうのだ。

これが、思考の迷子である。

思考の迷子にならないようにするために有効なのが、常に自分が考えている抽象度を意識することである。

抽象度とは、具体的と抽象的を行き来する軸であり、自分が今具体的なことを考えているのか、抽象的でコンセプトに近いことを考えているのかを計る尺度である。

(中略)

自分が今何を考えているかを見失ってしまった際には、抽象度を上げて、よりコンセプトに近い内容を考えるようにすれば、出発点に戻ってくることができようになる。

狭くなっていた視野を広げ、自分の立っている位置を把握できるようになるのだ。」

(前著より引用)

深く考えることができても、その目的は何なのか、常に自分に問いながら進める。

そこに、新たな道が広がっていくと感じます。

今回もお読みいただきありがとうございました。

自分を磨く!今日のちょっといいお話(その287)「好き、で成功する理由」

こんにちは、くらです。

世の中の成功者を見ていると、運、才能、環境など、凡人の手に入らないものを一杯手にしているのではないか、と思えます。

でも、成功の裏には、凡人には分からない苦悩、努力、孤独があることを、何人もの人から感じます。

成功者の真似はとても難しいかも知れませんが、その気概や姿勢、心持ちなどからは学ぶことができると思います。

スマイルズの「自助論」(三笠書房)に、スコットランドの風俗画家、デイヴィッド・ウィルキー(1785-1841)という人のお話があります。

牧師の家に生まれた彼は、学校では劣等生で寡黙だったが、人物を描くとなると途端に熱中した。

いつも絵を描く機会を探し、どんなものでも工夫して絵を描く材料にした。

燃えさしの木切れは鉛筆に、なめらかな岩はカンバスに、ボロをまとった乞食に出会うとそれも絵の題材となる。

よその家に出かけると、壁いっぱいに落書きを残す。

エジンバラにあるスコットランド美術院へ入学を申し込むが、作品が粗野で正確さに欠けるという理由で入学を拒否される。

しかし、粘り強く作品を作り続け、ついには合格。

入学しても、彼の進歩は遅々たるものだったが、成功を決意し、その努力の結果に確たる自信を持っているかのようだった。

(以下本文)

「『自分の成功は、天賦の才というよりはむしろ地をはうようなねばり強い努力のたまものだ。

私の絵が上達した理由は、たった一言でいい表せる。つまり、たゆまず勉強したからだ』と後年、彼は述べている。

後に、ウィルキーはロンドンに出て安下宿に暮らしながら、『村の政治家たち』を描き上げた。

この絵は好評を博し、絵の注文も増えた。

だが、それでも彼は長い間窮乏生活を余儀なくされた。

というのも、制作にあまりにも時間と努力をかけすぎるため、その絵が売れてもほとんどもうけにならなかったからだ。

(中略)

『働け!働け!もっと働け!』

これがウィルキーのモットーだ。

彼は、おしゃべり好きの芸術家を極度に嫌っていた。口達者も種まきくらいはできるのかもしれない。だがいつの世も、熟した実をもぎ取るのは不言実行型の人間なのだ。」

(『自助論』スマイルズ(三笠書房)より引用)

好きなものは、誰に何を言われても、常に追求していく。

勉強し続ける。いつの世も、成功する人の共通点だと思います。

今回もお読みいただきありがとうございました。

自き分を磨く!今日のちょっといいお話(その286)「価値への執着を手放す」

こんにちは、くらです。

物事をありのままに見れたら、と願っていても、なかなかそのようには見れません。

それは、今までの経験や思考で獲得した自分独自の価値観があるから。

ありのままに見て、ありのままに受け止められたら、人はどうなるのか。

ずっと思っていました。


「人は大きな試練や悲劇の中でも平静を保つことができるし、必ずしも人生がめちゃくちゃになっしまうわけではないが、ことのほか大事にしていた価値の大きいものが最悪の状態になると、多くの場合、人生はクラッシュしてしまう。

深く暗い絶望の中に突き落とされ、どん底に落ちても、どこが底だかわからないほど、まだまだ落ち続けているような感覚を覚えるだろう。

僕の場合は、仕事を失い、原因不明の体調不良に襲われ、『生きていること』の耐えがたい苦痛に悩まされた経験がもとで、すべてが壊れた。

その後、僕はスピリチュアル系の本を山ほど読んだ。

(中略)

彼/彼女ら著者たちの多くは、それぞれの個人的なストーリーを背景にしているが、どれも根底はよく似ている・・・。その共通点とは何か。

人生で経験したクラッシュだ。

(中略)

大きな人生の崩壊を体験して、もういっそ死んでしまうか、『ファック・イット(もうどうとでもなれ)』と言って、しがみついていた価値観を手放すかのどちらか、というほどギリギリまで追い詰められると、ものの見方に大きな変化が訪れるんじゃないか、と僕は思う。

程度の差こそあれ、人生が壊れるような体験をした人は、より高いレベルへと目覚め、悟りとシンプルな人生を手に入れる確率が高いように思う。

つまり、『ファック・イット』の精神からいえば、悩んでいればいるほど、大きな苦痛を感じていればいるほど、『価値への執着』を手放すチャンスが高まる。」

(『FUCK IT 思い込みをぶっこわせ!』ジョン・C・パーキン(三笠書房)より引用)

価値観を手放すのは容易なことではないでしょう。

でも、それを手放さざるを得ないとき、きっと、それは、その人の新しい道が見つかるチャンスなのかもしれません。

もう捨てていいよ、新しい道へ進もう、と、自分にOKサインを出した時、より気高い、シンプルな人生が始まるような気がします。

ですので、追い込まれたときは、これはきっと何かのお告げだ、とくらい思って、価値観を手放すチャンスを楽しんで待つのがいいのかもしれません。

今回もお読みいただきありがとうございました。

自分を磨く!今日のちょっといいお話(その285)「リーダーシップのアドリブ」

こんにちは、くらです。

どんな状況でも、リーダーは咄嗟の判断が求められます。

そして、その判断が正しいことはもちろん、引き連れている部下に対する責任を常に問われます。成功者のリーダーシップは、何を目的にしているか。

ある歯科医院の院長の話です。

31歳で開業。

診察台三台、スタッフ四名で開始。

経営は軌道にのる。

大学卒業後、腕を磨きたい一心でいくつもの歯科医院を掛け持ちし、休みの日も勉強会で修行。

そして、隣接する土地に医院を増設、新しいスタッフを増員。その途端に歯車が狂いだす。

全てに目を配っていたのが、増設で手落ちができ、新人スタッフの教育ができず、「上手く回らないのはスタッフのせいだ。スタッフのレベルが低すぎる」と、いつの間にかスタッフに責任を押し付けていた。

患者数は以前と変わらないのに赤字経営となり、借金が嵩んだ。

そして、ある年の旅行中、台風で川の浸水がおこり、天国から地獄へ落とされたような衝撃を受け、急ぎタクシーで医院へ向かった。

タクシーの中で絶望感に襲われながら思った。

「もしこれで医院を畳まなきゃいけなくなったとしたら、スタッフになんて言ったらいいんだろう。

何でいままでもっと優しい言葉を掛けてあげられなかったのか」

医院は確かに悲惨な状況だった。

ところが、完全に指示待ちだと思っていた新人スタッフたちが、院長や幹部スタッフがいない中、泥だらけ復旧作業に従事していた。

その姿を見た時、院長は言葉にできない感動を覚えた。

「医院を復活させ、彼女たちが活躍できる舞台を絶対つくる。

こっちから辞めてもらうことはしない。

一生付き合っていこう」

不思議なことに、この洪水災害以降、業績はプラスに好転、右肩上がりに伸びていった。

院長は思った。

「その理由は、トップである私自身のあり方が百八十度変わったから」

「この世でなんとかなるものはたったひとつ、自分のことだけ。自分が信念を持って自分を変えると、まわりも変わりだす」

院長はそれから毎朝、笑顔のトレーニングをし、イライラした時にはその原因を手帳に書きだしたり、「それって、それほどたいしたことですか?」と自分の心に問いかけるそうです。

まずは自分自身がいつも機嫌よく楽しそうに仕事をすることで、スタッフも自然と笑顔になり、イキイキと働くようになった。

「患者さんはスタッフが連れてくる」

技術力、設備は大事だが、一番は、その場所にどれだけ魅力的な人がいるかどうか。

(月刊到知2015年2月号 到知随想「すべては自分の責任」森昭 より引用)

心が言葉を変え、自分の行動を変え、周りも変えていく。

音楽のアドリブも、まず言葉である音の並びを自分なりに変えて、その場のグルーブを作っていく。

そのためには、そこにいる自分自身の心のあり方が大切。

スタッフではなく、自分が問題であったという真理こそ、院長が創造した最高のアドリブではないかと、私は感じます。

今回もお読みいただきありがとうございました。

自き分を磨く!今日のちょっといいお話(その284)「カタチから入る」

こんにちは、くらです。

守破離という有名な言葉は、まず最初に師について学び身につけ、そしてそれを他の要素を入れて展開し、そして最後に独自のものを生み出すこと。

何を学ぶにも基本となることだと思います。

そこには、まずカタチから、ということも言えます。

高校に入るとエレキギターにはまり、当時人気のバンド、レッド・ツェッペリンのギタリスト、ジミー・ペイジが持っていたレスポールというギターが欲しくてたまらなくなりました(ギブソンというメーカー、当時300,000円位)。

本物はとても手が届きませんので、当時のグレコというメーカーのレスポールという36,000円のギターをアルバイトで買い、エレキの世界へ入っていきました。

今でもこれは私の信条ですが、「カタチ」から入るというのはとても大切です。

大好きな人と同じものを使って同じことが出来れば、幸せこの上ない。

だからこそ、多少の困難さがあっても、何とか先へ進む意思はそう簡単には消えないのだと思います。

「ここで言う、『カタチから入る』とは、『道具から入る』ということです。

趣味の道具を揃えるとき、憧れている人やプロフェッショナルの人が使っている道具を真似するという人も多いでしょう。

ギターを弾きたいなら、自分が大好きなプロギタリストが使っている『〇〇モデル』のギターやアクセサリー類を揃えたり、写真を始めるなら、好きな写真家が使っているカメラメーカーの製品を選んだり。

カタチ(道具)から入るとは、ポジティブな意味で『パクる』ことでもあるわけです。

あの人みたいに弾けるようになりたい。道具を真似ることがモチベーションにつながるのなら、それだっていいんですよ、全然。

以前、テレビ番組で心理学の先生が『新しい趣味を始めるなら、ある程度グレードの高い道具を買ったほうがいい。

いいものを使うことで能力が引き出される』という内容の話をしているのを耳にしたことがあります。

(中略)

いいものを使うことで、脳がよりそのものの機能を活かそうと考えるからなのだとか。

確かにゴルフにしても、最近は『いいクラブを使えば、格段に腕が上がる』らしく、初心者だからとグレードを落としすぎないほうがいいという人もいます。」

(『定年クリエイティブ』中島正雄(ワニブックスPLUS新書)より引用)


ギターを長いこと弾いていると、それなりに楽器の良し悪しが分かってきます。

音の出方、弾きやすさ、扱いやすさ、など、やはり安いものはそれなりの音、高いものはやはりそれなりのいい音を出してくれる。

私のようなアマチュアでも、いいギターを弾くと、アマチュアなりの感動に浸ります。

そして、更にギターが欲しくなる。これが一番の問題です(笑)。

今回もお読みいただきありがとうございました。

自き分を磨く!今日のちょっといいお話(その283)「アドリブは心構えから」

こんにちは、くらです。

ギターのアドリブの名演を聴いていると、ドキドキとワクワクが止まらなくなります。

感動してしまいます。

どうしてこんな風に弾けるのか。

気になるギタリストの演奏の解説などを見ても、音の分析はされていますが、何故そう弾いたのか、は分かりません。

これは、問題解決の解決策に近いものがあると思っております。

簡単に答えが見つからないこの時代、解決策はアートだ、ということを聞いたことがあります。

誰も経験していないことが答えになる。

世の巨匠たちは、常にそれをやっている。

それがアドリブ力の根源だと思っています。

自分の好きな世界で、自分に何か求められた時、その都度、ほんの少しでもいいから、今まで経験したことのないことをやってみる。

巨匠のレベルにはそう簡単には到達できない。

ならば、その人たちを倣って、一歩一歩進んでいこう。

それをアドリブ力の手始めだと考えております。

「感動するような咄嗟の創造力」、それをアドリブ力と定義します。

咄嗟の解決は、日常の会話の中でも起こっていると思います。

「今日なに食べようか」

「カレー食べたい」

「でも、牛肉のいいのもらったからなあ」

「じゃあ、カツカレーにしよう!」

なんてことは結構起こっていると思います。

咄嗟の解決の中でも、感動が伴うものは、そう簡単ではありません。

ギターでも、コード進行に合ったスケール、アルペジオ、リズムなどが合わされば、とりあえずアドリブはできます。

でも、それは単に合っているだけで、感動は生み出さない。

その普通を感動に持ち上げるのにはどうしたらいいか。

それは、自分がアドリブを発揮したい対象に、どれだけ集中し、打ち込んでいるか、で違いが出てきます。

ビートルズはエルビスプレスリーを崇拝して、彼の音楽を徹底的に自分でやってみた。

エリック・クラプトンは、自分の尊敬するB.B.キングを徹底的にコピーした。

ラリー・カールトンはジョー・パスというジャズギタリストを崇拝し、直接彼に教えを請いにいった。

巨匠たちは、好きなことを徹底的に掘り下げて、トップに登っていきました。

そこにはどんな精神があるのか。

茶道裏千家前家元の千玄室さんは仰っています。

茶の精神を、千利休は五百年ほど前に『和敬清寂』という四つの文字で言い表しているそうです。

『和』は平和の『和』。

『敬』は尊敬の『敬』。

好き嫌いを超えた敬い。

『清』は、読んで字のごとく、清らかということ。

最後の『寂』は、寂然不動の『寂』で、どっしり落ち着いて何物にも動じない心のこと。

(『生涯現役の知的生活術』渡部昇一他(育鵬社)より引用)

(以下本文)

「私たちは、誰も自分の未来を予見することはできません。

だからこそ、どんな事態に直面しても、それに動じないだけの心のゆとりを持つように心掛けなくてはなりません。

後になって悔やんだり失敗しないために、あらかじめ準備しておく。

つまり、心をつくっておくことが『寂』であるといってもよいでしょう。」

(前著より引用)

最後の『寂』の定義こそ、アドリブの心意気だと思います。

動じない心のゆとり。

それを作る準備。

それがあって、咄嗟の素晴らしい解決策が生じてくるのだと思います。

今回もお読みいただきありがとうございました。