「不安を認める」カテゴリーアーカイブ

自信も才能もなく毎日の仕事がつまらなくて仕方がなかった自分が、仕事が楽しくてしかたない自分に180度変わった理由(その9)

こんにちは、くらです。

営業(MR)が嫌で嫌でしょうがなかった自分。

何とかする方法は、辞めるか、現状を変えるか、それしかない。

最初は辞めることしか頭にありませんでした。

何とかする方法をしっていたら、とっくにそうしていたでしょうから。

嫁さんもらったばかりなので、逃げるわけにはいかない。

それで私が実際にとった行動は、それまで先輩や上司にやってはいけないと言われていたことをやったこと。

奇跡的にそれがうまくいったのでした。

でも、やってはいけない、と言われていたことでしたが、よくよく考えてみたら、何らかの形で先輩たちも、やっていたのでした。

それは、規則に反しない内容で、相手に喜んでもらうことでした。

新人の初めは、先輩たちがあの先生にはこれを持って行けば喜ぶ、これをしたらきっとうれしい、などと言われていたことを、やってみても、実は全然うまくいかなかったのでした。

先輩たちはうまくいくのに、なんで自分がやると全然だめなのか。

やってもやってもうまくいかないと、やる気が失せます。

これは、先輩たちだから相手が喜ぶ、つまり、人間関係なのだと、うすうす感じていた。

だから、関係ができてない自分がいくら先輩たちと同じことをやっても相手の心には響かない。

そういうことは実感してました。

自分がやってもだめなんだ。

いくらやっても通じない。

私ではだめ。

この固定観念が頭を支配し、自分の行動をとてつもなく制限していたのでした。

それに気づかされた私は、やってみたいと思っていたことを、片っ端からやってみた。

徐々に結果に結びつき、いつの間にか人間関係もできていた。

気付いたら、夢のような世界(おおげさ)。

この世界を造れたのはなんでだろうか。

やりたいことをやる。でもそれは、あくまで相手が喜んでくれそうなこと。

ここで私のアドリブ力が発揮されます。

実際の例を簡単にお話します。

あの人はいつも釣りにいっている。

では、その釣りの話題を掘り下げてみよう。

当時、チヌ(クロダイ)のかかり釣りというのが流行り始めていました。

私は小学校の頃から釣りが大好きでしたので、釣りの雑誌はよく読んでいました。

そこで、かかり釣りの話題を投げると、気にはしているけど、スペックなど(竿、リール、糸など)はまだ揃えていない、ということでした。

私は、勝手に買いそろえて、相手に差し出しました。

相手は心からびっくりしてました。

実は、話を投げかけたときが、その人とは初めて話したときだったのでした。

つまり、さっき話題で話したものを、もう今持ってきた、ということです。

本当にびっくりしていました。(そりゃそうだ)

でも、その後、その人とは月に1回、釣りクラブで一緒に釣りにいく仲になりました。

その人と私にしか分からない絆ができたのでした。

私は、そんな絆ができるなんて夢にも思っていなかったので、自分の行動がしばらく信じられませんでした。

そんなことがあってから、そういう絆がいたるところででき始めました。

目的は、相手によろこんでもらいたい。

その理由は、相手と仲良くなりたい。

現状とのギャップは、他人に近い状態。

対策は、趣味が分かっているので、そこをアドリブ力で実践していく。

考えてみると、課題設定・問題解決を、いつの間にか実践していたのでした。

次につづく。

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ちょっと内気な営業マンの自捨力-「不安を認める(その5)嫌われるのが怖い(2)」

こんにちは、くらです。

前回、
不安の定義として、
「なにか悪いことが起こる」のでは、
という恐れる感覚、
のようなことがあげられていました。

不安には、
正常な不安と、
病的な不安があります。

正常な不安には、
次のようなものがあります。

・理由は自分でも分かっていることが多い
・他人に説明できるし、理解してもらえる
・長く続かない
・苦痛があっても耐えられる
・普通に生活でき、生活習慣の変化もない
・消失すれば忘れてしまう

病的な不安としては、
以下のことがあげられます。

・理由がつかめないことが多い
・他人に説明しにくく、理解されない
・長く続く
・苦痛が大きくて我慢できない
・普通に生活できず、生活習慣が変化する
・また起こるのではという不安がある

     (「脳内不安物質」(講談社ブルーバックス)より)

病的な不安に関しては、
やはり医療行為による治療・支援が必要だと思いますので、
ここでは取り上げません。

内気な人の不安として、
「嫌われるかもしれない」ということを考えてみると、
上記の、正常な不安の中に入ると考えられます。

つまり、
理由が自分でも分かっているし、
消失すれば忘れてします、
不安がほとんどではないか、
と考えられるのです。

営業をやっていると、
様々な人に会います。

いい人、
優しい人、
怖い人、
難しい人、
など、
細かくみれば、
一人ひとりみな違う人です。

当たり前なのですが、
一人ひとり違うなら、
自分もその中の一人です。

いい人も怖い人も、
考えてみれば、
いて当たり前なのです。

嫌われるのが怖いのは、
自分が拒否されたらどうしようか、
という不安からくる恐れです。

そう感じるのは、
幼少時の親子関係や、
その他育った環境からの影響もあるかもしれません。

この件に関しては、
また改めて取り上げるつもりですが、
営業として考えるなら、
一人ひとり違う人間を相手にするなら、
自分と合う人、
合わない人がいて当たり前だ、
と、冷静に考えれば納得がいくのではないでしょうか。

一人ひとり違う人なら、
全員とうまくいくケースなど、
そうはないと思います。

自分のいいところを、
受け入れてくれる人も、
きっと中にはいると思えば、
10人中5人に嫌われても、
それはしょうがないかも、
でも、
きっとそのうち、
自分と分かり合える人が出てくる、
それまではあきらめないで、
営業という仕事を続けてみようか、
とちょっと軽く考えるところから始めませんか。

ちょっと内気な営業マンの自捨力-「不安を認める(その4)嫌われるのが怖い(1)」

こんにちは、くらです。

捉(とら)われが不安を生む、
というお話をしてきました。

捉われとしてどんなことが考えられるのでしょうか。

最初として、
「嫌われるのが怖い」、
ということを考えて見ます。

内気な人には結構多いのではないでしょうか。

嫌われるから本当のことが言えない。

嫌われるから余り親密な関係を築けない。

嫌われるから自分の本当の姿を出せない。

だから、
どんな人と会っていても、
常に演技をしているようで、
緊張し、
一人になってみると、
精神的に消耗し、
疲れてしまう。

こんなに疲れるなら、
もう人に会うのはやめよう。

このような、
人との関係をうまく構築できずに、
自分の世界に閉じこもることも、
人によってはあるのかもしれません。

閉じこもるところまでいかなくても、
心を開かずに、
一人ストレスフルな日々を過ごしながら、
社会生活をなんとかこなしている人も、
いるのかもしれません。

なぜ嫌われると思ってしまうのか。

ありのままの自分でいるのが、
なぜ怖いのか。

ありのままの自分を出すのが、
なぜ不安なのか。

不安とは、
そもそもどんな定義をされているのでしょうか。

「不安とは、
 恐ろしいものに脅かされているという感情。
 現実に恐れる対象がはっきりしている恐れとは異なり,
 その原因は本人にも明瞭でない。
 また,不快な刺激に基づいて獲得され,
 回避反応の学習にあずかる2次的動因となる。」
              -コトバンクー

「不安:
 どうなるかと心配して、
 おちつかないようす。」
      -三省堂国語辞典ー

では、
不安の反対はなんでしょう?

対義語としてあげられているのは、
安心、
安定、
などです。

「安心:
 心配がなくなって、
 心がおちつくこと。」
     -三省堂国語辞典ー

「安定:
 おちついていて、
 動いたりゆれたりする心配のないこと。
 物体に物理的・化学的なはたらきをくわえても、
 もとの状態をたもとおうとするようす。」
     -三省堂国語辞典ー

さらにもう一つ。

「心配:
 (悪いことが起こりはしないか、
  どうなるか、ということを、
 気にかけること。
 気がかり。」
     -三省堂国語辞典ー

三省堂の回し者か(笑)、
と思われてしまうかもしれないくらい、
少々定義にこだわってみました。

ここから更に、
なぜ不安になるのか、
考えて見ます。

(続く)

ちょっと内気な営業マンの自捨力-「不安を認める(その3)」

こんにちは、くらです。

「強気の人・弱気の人」加藤諦三(三笠書房)という書籍は、
当時の自分にとっては、
すべての言葉が納得でき、
それだけでなんだか救われたような、
自分の前によく見えないけれど道が開けたような、
そんな気分になりました。

この本には、
わたしにとって、
貴重な言葉が満載されてます。

「人間なんだから、
多少弱くたってあたりまえだ、
と感じられる人は、
自分の弱さをそれほど強く意識することはないだろうし、
その弱さにとらわれてしまうということもないだろう。

 理想的であらねばならぬと思うから、
 それに拘束されてしまう。

 劣等感の強い人も、
 ふつうの人以上に自分の劣等性にとらわれてしまう。

 それはやはり劣等な自分を許せないからであろう。

 おそらく劣等であることで拒絶されるような環境に育ったのではないだろうか。」

弱くてはいけない、
劣等ではいけない、
と潜在意識が常に訴えていると、
いつの間にか、
生きるのがつらくなってくると思います。

「自分で自分をもてあましてしまうのも、
 ”ある”ものを”ない”とみなそうとしてきたからである。

 汚れていようと清らかだろうと、
 弱かろうと強かろうと、
 この自分が生きていく以外に生きる方法はないのである。」

「事実に迫ることに意味があり、
 そのことが私たちに勇気を与えてくれるのである。」

「本当のことを知ろうという気迫があれば、
 人は強くなれる。

 他人に同調し、
 ただ嫌われることを恐れてほんとうのことから目をそらしていては、
 いつになっても強くなれない。

 ほんとうのことを知れば、
 人は強くなれる。

 ほんとうの自分を知ろうとすれば、
 プレッシャーなどに負けない人間になれる。」

私が提言する自捨力は、
まさにここに書かれていることなのです。

ほんとうの自分を知る、
ほんとうの自分を受け止める、
そのために、
今まで身に着けた世間のものさし、
同調しないと嫌われる、
劣等な自分では受け入れてもらえない、
今のままの自分であってはいけない、
という、
根拠のない捉われを知り、
それを捨てて、
ほんとうの自分を手に入れ、
自分の人生を自分なりに歩いていく試みが、
私の提言する自捨力です。

ではまず、
自分がなにに捉われているか、
知るところから始めたいと思います。

(続く)

ちょっと内気な営業マンの自捨力-「不安を認める(その2)」

こんにちは、くらです。

(前回の続きです。)

自分はなぜ人の評価ばかり気にするんだろう、
と思い始めたきっかけのお話です。

それまでは、
人の評価、という言葉自体、
自分のボキャブラリーの中にはありませんでした。

これは、
評価を気にしていなかった、
という意味ではなく、
そういう概念がなかった、
ということなのです。

なんとなく自信がなく、
なんとなく恥ずかしく、
なんとなく内気で、
というのは自分の生まれ着いての性格だろう、
と勝手に軽く判断していた、
と思うのです。

そうではなく、
自分は人の評価を気にしているから、
自信がなく、恥ずかしく、内気なんだ、
と思ったきっかけがありました。

今の前の会社で、
初めて研修担当の仕事をしたとき、
私の上司と、
私の一つ下の後輩が、
常に明るく、
自信満々だったのでした。

一緒に話や仕事をしていると、
彼らの話や言葉から、
どうしてこんなに自信を持てるのだろう、と、
傍で聞いている私は、
常にうらやましく思っていました。

彼らみたいに、
いつも自信満々で生きていられたら、
人生楽しいだろうな、
自分もああなれたら、
きっと幸せだろうな、と、
いつも思っていました。

ただ、
一つ気になっていたのは、
彼らが、
あまりに自分の考えや意見に、
固執する場面が、
特に、話し合いや会議、
ちょっとした雑談でも、
時折見られたときでした。

やはり自分に自信を持っていると、
自分の意見や考えを、
あくまで変えることはないのかな、と、
そのときはあまり深く考えることなく、
そのまま受け止めていました。

しかし、
何回かそういう場面を経験していると、
自分の中に、
なんとなく違和感が湧いてきたのです。

「なせ、あそこまで自分の意見に固執するのだろう」、
「自信があるなら、あんな言葉は笑って過ごせばいいのでは」、
「自分の立場を守るには、そこまで自信を表明すべきなのだろうか」、
こんな考えが私の中に生まれてきました。

私の中にある、
自信を持った人のイメージが、
そのとき少しずつはっきりしていたようです。

意見・思考はロジカルに、
そして、
受容は寛大・フレキシブルに。

こんなイメージがいつの間にか、
自分の中でできていました。

そして、
そのイメージ、考えが、
ある本に出会って、
よりはっきりしたような気がするのです。

その本とは、
「強気の人・弱気の人」加藤諦三(三笠書房)でした。

(続く)

ちょっと内気な営業マンの自捨力-「不安を認める(その1)」

こんにちは、くらです。

「自捨力」とは、
根拠のない自信を持つことであり、
そのためには、
まず自分を受け止める、
ということを前回お話しました。

まず最初に受け止めること、
それは「不安を認める」、
ということです。

私くらいの年になると(実はもうすぐ60歳)、
「不安を認める」ということに対して、
人によってはとても難しいのです。

男は強くあらねばならない、
弱っちょろいのは男じゃない、
女々しいことをいうな、
などなど、
男は弱さを見せてはいけない、
という言葉が、
かなり植えつけられているのではないかと思います。

私の場合、
父親が元陸上自衛隊で、
戦争に行った経験もあることから、
特に上記のような言葉を、
聞く回数が多かったかもしれません。

ただ、
幼少期を振り返ってみると、
私はとても内気で弱い子供でした。

幼稚園へ入っても、
最初の1週間泣いてばかりいた、
ということを覚えています。

人前で、
何かを演技する、
というのは恐怖でした。

例えば、
「はい、チューリップの格好をしてください」
ということをその幼稚園の先生がよくやってました。

多分、
私はそのとき、
ずっと下を向いたまま、
自分の番になっても、
只管時間が過ぎるのを待って、
なにもしなかった、
と記憶してます。

人から注目されたり、
笑われたりするのが、
怖くてしかたなかったのです。

そんな自分が、
20年以上も、
会社の新人研修を担当し、
ほぼ毎日、
人前に立って、
講義、スピーチを難なくこなし、
話し方、聴き方、など、
プレゼンテーションの基本を教えているなんて、
まるで夢のようです。

ここまでこれたのは、
もちろん求められる状況があって、
こなしていくうちに慣れてきた、
ということが大きいのですが、
それを可能にしたきっかけがあったのでした。

それが、
「不安を認める」、
つまり、
自分が不安に感じているのを、
自分が意識して受け止める、
ということでした。

それまでの自分は、
うまくやらねばならない、
恥をかいてはならない、
人からすごいと言われねばならない、
など、
人からの評価ばかり気にしていました。

でも、
あるとき、
なんで人からの評価ばかり、
自分は気にしているんだろう、
と考えるきっかけがあったのです。

(続く)